本文へスキップ

私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。   目標:福音を日常的に伝える。 祈りを呼吸のように行う。 聖書の御言葉を生活の中に生かす

TEL.093-964-2590
kikuecclesia@gmail.com

深沢教会ホームページへ

日本基督教団 深沢教会 イエス・キリスト企救エクレシア

ようこそ、日本基督教団 深沢教会 
イエス・キリスト企救エクレシアのホームページへ。

+ 2018年7月22日 特別伝道礼拝:「ノーサイド」
  7月は、サッカーのワールドカップがロシアで行われ、日本の活躍が、我が国のみならず世界中を沸かせました。試合が深夜や早朝に行われましたので、睡眠不足になられた方も多かったのではないでしょうか。すべての試合が力と力のぶつかり合いで見ごたえのあるものでしたが、それに匹敵するほどわたしたちを感動させたのが、試合のあとにお互いの健闘をたたえ合う光景でした。スポーツマンシップの真髄は、このような「ノーサイドの精神」にあります。敵味方になって激しくぶつかり合っても、終了の笛がなったら敵も味方もなくなり、お互いをリスペクトし合うのです。
 この精神は、イエス・キリストの精神でもあります。パウロはこのことを本日の聖書の箇所で、次のように記しています。「キリストは、わたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除かれた」(2:14) と。旧約聖書の創世記から始まる人間の歴史は、まさにこの敵意の歴史でもありました。人間の始祖であるアダムとエバは、その罪の責任を他者(エバは蛇に、アダムはエバに)に負わせて責任転嫁して自己正当化し、神に背きました。次に二人の初めての子(カイン)は弟のアベルに嫉妬して敵意を抱き、アベルを殺害してしまいました。父なる神は、神と人、また人間同士の関係の修復のために、アブラハムを父祖とするイスラエル民族を選ばれ、その回復を計られました。しかし彼らはそのような神の意図からはずれ、選民意識だけが強くなり、自ら優越意識・特権意識をもつようになり、他者(異邦人)を裁く結果になってしまいました。このような人間の罪の歴史(敵意の歴史)に終止符を打つために、父なる神は、そのひとり子であるイエス・キリストをこの地に送られたのです。
 パウロは前述の聖書の箇所に続けて、そのことを次のように記しています。「イエス・キリストは、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神に和解させ、敵意を十字架につけて滅ぼしてしまったのである」(2:14〜16) と。二つのものを一つにするのは(ノーサイドにするのは)十字架によってのみ可能であり、本当の平和はイエス・キリストの十字架によってもたらされるということを告げたのです。そして、父なる神は、その務めをキリストにあってまったく新しい人に造りかえられたキリスト者にお委ねになられました。
 礼拝は単なる儀式ではありません。わたしたちはイエス様によって新しく力を得て、この場から、平和の使者としてそれぞれの所に遣わされていくのです。
   
+エペソ人への手紙2章11〜16節

11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。 13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

 

+ 2018年7月1日 特別伝道礼拝:「いのちの光」
  私たちの神様は、どんな方なのか?と考える時、逆説的にはなるのですが凄く人間臭いお方だと思うのです。人は、神様に似せて作られたと聖書の中にありますので当然なことなのでが、まるで本当の父親の様に私たちを全力をもって、怒ったり、罰をあたえたりと私たちにとって、とても耐え難いような事をなさることがあります。 私が小さい時、私の父に真っ暗な大きな倉庫の中に放り込まれたことがあります。悪さばかりしていたので其処に入れられたのですが、トラウマになり真っ暗なところでは眠れなくなってしました。妻は真っ暗なところでないと眠れないので、随分と迷惑をかけてしまいました。(笑)
 何かの理由をもっての罰であったと考えて見ることで色々なことを学び乗り越えることができるのもまた事実です。いまは、このトラウマも無くなり真っ暗な場所でも平気で眠れるようになりました。

 わたしは怒ってあなたを打ったが/今、あなたを憐れむことを喜ぶ。(イザヤ60:10)

 イザヤ書のなかで、主が本当の父親以上に(主が本当の父親かも?)私たちを思い100%全力をもって怒り、罰を与えたりもするけれど、主のその偉大な御力を凡てお使いになって私たちを憐れみ慈しみをもって接してくれる方であることに感謝するのです。主は、我々から遠く離れた、接点の薄い遠くに居られて、見下し、穢れた罪深い私たちと関わることを嫌うような方ではないということです。

 どんな大きな罰を与えた時もそれを正当化して何度も繰り返すようなことをなされなかった、何時も其の後には、愛と慈しみをもって、諭し、導き、そして、独り子であるイエスさまに凡ての怒りや罰を背負わせることによって、その愛を示されたのです。私たちは、恐怖心から主にしたがうものではなく、その大きな愛によって主を畏怖するものとなったのです。

 主はイザヤを通して「私の栄光をうけて、光輝け」と、言われているのでないかと・・・・・・。

 私たちは、時に自分で輝こうとしますが、その罪や穢れや消極的な心構えによって輝くことが出来ません、輝いて見えることがあってもほんの一瞬です。しかし、そんな愚かな考えに支配され、怯えて縮こまって生るのではなく、主の大いなる輝きを受けることによって、私たち自身も「いのちの光り」を得て輝き、主の栄光を示す人生を送ることが出来るのです。
 これこそが、主の恵み! 主の望み! 主のご命令! 「いのちの光」です。
   
+イザヤ書60章1〜5節、20〜22節

1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。 3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。
20 あなたの太陽は再び沈むことなく/あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり/あなたの嘆きの日々は終わる。 21 あなたの民は皆、主に従う者となり/とこしえに地を継ぎ/わたしの植えた若木、わたしの手の業として/輝きに包まれる。 22 最も小さいものも千人となり/最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。

 

「2018年6月24日 特別伝道礼拝特別賛美」


勝谷紘幸兄+BB.Oh!Sun'z

7/31(火)PM6:30より
「みんなのゴスペル」を
 当教会にて行います。

 

 

 

 

 

 

+ 2018年6月24日 特別伝道礼拝:「信仰の友・ごはんの友?」
    以前、学校の保健体育の教師をしていた時に保健の授業で集団のあり方について教えたことがありました。集団の分け方には、大きく2通りの分け方があるということです。ひとつは「もち型集団」で、もうひとつは「アジサイ型集団」です。もち型集団は、ひと粒ひと粒のもち米が、その形がなくなるまで打ち砕かれて、ひとつの大きな餅という集団になっていくものです。それに対しアジサイ型集団は、ひとつひとつの小さな花がそれぞれに美しく咲いて、それらの花が寄り集まって、色とりどりの花を咲かせるという集団です。前者は日本型の集団を表し、後者は欧米型の集団を表しているということです。
この欧米型集団の基礎になっているのは聖書の教えであり、イエス様の教えです。それは「神と人」という関係の中で、ひとりひとりの人格(人間性)を尊重し、それぞれの賜物(個性)を活かし伸ばしていくという教えです。
 そのキーワードといえる言葉が、本日の聖書の箇所に記されているイエス様の言葉です。イエス様はここで弟子たちに対して、唐突とも思えるほどのタイミングで、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。そこには単なる友達という意味合いではなく、父なる神様、イエス様の思いを共有し、それをいずれ実行して欲しいという願いが込められていました。
 イエス様の切なる願いは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということでした。イエス様はこのことを具体的に示すために、自ら進んで、取税人や罪びとたちと食事をともにされました。「ごはんの友」となられたのです。これを見た、律法学者・パリサイ人は「あなたがたの先生は、なぜ罪人や取税人らと食事をともにするのか」と迫りました。当時の律法の規定では、そのような場所に出入りしたり、そこにいる人々と食事することを禁じていました。これに対してイエス様は「わたしがこの世に来た目的は、このような罪人を招くためである」と答えられました。
 イエス様が「友」と呼ばれたのは、人間が定めた規定や規約を越えて、この言葉の通りに、ひとりひとりの人間を尊い存在として愛し抜かれるという姿勢を示していました。イエス様は、十字架にかかって、わたしたちの罪をゆるしその極みまで愛し、ひとりひとりを大切な友としてくださいました。イエス様とともにあれば、すべての人が人生の花を咲かせることができるのです。
 今、日本の社会は人間性まで無くさせてしまうような忖度(そんたく)の社会から、すべての人が人生の花を咲かせることができる社会に変わっていくことが望まれています。このことを実現させてくださるのがイエス様の教えなのです。  
   
+ヨハネによる福音書15章12〜15節

12 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

 

「2018年5月27日 Pentecost特別賛美」


manna(マナ)+企救エクレシアのみんな

7/31(火)PM6:30より
「みんなのゴスペル」を
 当教会にて行います。

 

 

 

 

 

 

+ 2018年5月27日Pentecost記念礼拝:「あの愛をもう一度」
  ペンテコステは、聖霊降臨日であり教会が誕生した日でもあります。なぜ聖霊様がこの世に来てくださった日が、教会の誕生の日となったのでしょうか?
 イエス様は生前、聖霊について弟子たちに次のように語られました。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」(ヨハネ14:26)と。この「聖霊」は、目に見えないものだけに、さまざまな解釈がなされ、ここから多くの異端とされる教団・教派が生まれてきていることも事実です。それだけにしっかりとした聖書解釈が必要なのです。ここでイエス様が示された「聖霊」は「わたしの名による聖霊」であり、イエス様の名による聖霊でなければ聖霊ではないということです。
 「名は体を表す」といいますが、イエス様の名による聖霊は、イエス様そのものの本質を表しています。それはイエス様が、十字架上で示された「無限の愛とゆるし」です。聖書の中で「愛の章」として知られていますコリント人への手紙第Tの13章2節でパウロが、「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい」と記しています。このパウロが、本日の聖書の箇所でガラテヤの諸教会の人々に向かって、強い口調で「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(5:16)と告げています。なぜパウロはここまで強く命じたのでしょうか。それは、わたしたちがいかに肉の欲が強く、自我の塊のような存在であって、御霊によって歩くしか解決の道はないとパウロ自身が自覚していたからです。そして「その御霊の実は愛である」(5:22)と記しています。それはパウロがダマスコ途上で体験したイエス様の無限の愛とゆるしでした。
 今、多くの教会が高齢化し、地方では閉鎖を余儀なくされている教会も出ています。教会が存亡の危機に立たされているのです。初代教会は、イエス様の愛で満ちあふれ、互いに愛しあい、ゆるしあって生活を共にしていました。そこに多くの人々が魅力を感じて集まり、救いへと導かれていきました。
 現代の教会は、初代教会時にはなかった規則や制度や形式といったような、重い鎧(よろい)や兜(かぶと)を脱ぎ棄て、もう一度イエス様がその「無限の愛」によって、わたしたちを極みまで愛しゆるしてくださったように、聖霊様の助けによって、イエス様の愛にいきいきと生かされた本来の教会の姿に戻らなくてはなりません。「あの愛をもう一度」ペンテコステは、まさにその時なのです。 
   
+ガラティア人への手紙5章16〜25節

16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。 17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。 18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。 22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。 25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。

 


+ 2018年4月15日 主日礼拝(勝谷紘幸兄洗礼式):「キリストの命令」
   

 本日のみ言葉(マタイ28:18-20)は、イエス・キリストが復活の後、天に昇られる前、最後に語られた言葉です。ところで、私たちはなぜ洗礼を受けることを大切にしているのでしょうか?
 それは、このみ言葉のなかで命令として私たちに語られているからだと言えます。 しかしながら私たちの誰かが命令したとして、その命令がどのくらいの期間守られるでしょうか? 瞬時に破られるかもしれません、あるいは大変良い提案として何か月か何年か守れることもあるでしょう。しかし二千年ものあいだ守られるでしょうか?
 わたしに洗礼を授けてくれたのは、門司区出身の牧師でした。 その方に洗礼を授けたのは、そのお父さんの牧師です。・・・・・・と、どんどん遡っていくとイエスキリストまで繋がっていくのです。何故、こんなにも長い間守られてきたのか? 私たちクリスチャンがその命令を必死な努力によって繋いだから? (それも少しはあるかもしれません?)しかし、人間の命令ではこんな長い間守られることはないのでしよう。

 それは、「聖霊なる神の働きである」と考えるしかありえないのです。

 私たちは、洗礼を受けて何が変わるのでしょうか?  洗礼を受けた瞬間、身長が極端に伸びたりまた、色々な問題や悩みや病等が、霧が晴れるように取り除かれることを保証されるわけでもありません。何が変わるのでしょう? そのことを思うとき、私がはじめて洗礼を授けた兄弟の事を思い出します。彼は、末期のガンで余命いくばくもない中で、洗礼を受けることを望みました。
 その後、彼は明らかに変わりました。
 「イエス・キリストが自分と共にある」と、心から感じることが出来るようになったのです。そうして、安心と平安の中で天に召されました。

 私たちが洗礼を受けることが出来たのは、私たちが、清い行いをしてきたから? 謙虚だから? 非常に他の人々より優れているから? そんなことは絶対にないことを皆さんは十分わかっているでしょう。では、イエスキリストを私たちが信じたから、もちろんそれも有ります。
 しかし、何よりも聖霊なる神の贈り物(ギフト)以外の何物でもないのです。

 「主が共に居て下さる」こと、この祝福と共に今日を生きてゆきましょう。

 「キリストの命令」に感謝!! 

 
+マタイによる福音書28章18〜20節

18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」。

 


+ 2018年4月1日 イースター記念礼拝:「一陽来復(いちようらいふく)」
 本日のメッセージのテーマである「一陽来復」という言葉には、@冬が去り、春が来ること。A悪いことが続いたあと、ようやく物事がよい方に向かうこと。という意味があります。わたしたちの人生は、山あり谷ありの人生です。誰ひとりとして、順風満帆な人生だけを歩んで行く人はいません。人はいろいろな苦しい状況を乗り越えて、それぞれの人生を歩んでいくのです。そこにわたしたちの人生の機微(奥深さ)があります。
 本日の聖書の箇所に登場しますイエス様の二人の弟子も、その人生において、このことを体験しました。彼らはイエス様の弟子として、イエス様と行動をともにし、その素晴らしい教えと死人さえも生き返らせる奇跡を眼近かに見て、「この方こそ、イスラエルを救うお方である」という思いを強く抱き、自分の人生のすべてをかけて従っていきました。しかし、そのイエス様がいとも簡単に「アッ」と言う間に、十字架刑という最悪の処刑のされ方で死んでしまわれたのです。彼らの落胆ぶりはいかばかりだったことでしょう。生きる目的を失った彼らは、イエス様との活躍の舞台であったエルサレムを後にして、自分たちの生まれ故郷であるエマオに向かって、うす暗い闇の中をとぼとぼと歩きだしました。夕闇の中を、肩を落としてとぼとぼと歩いている彼らのうしろ姿を想像してみてください。彼らはまさにこの時、人生の冬を迎えていました。
 しかし、突然「イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」(15節)と記されていますように、何とこの時イエス様の方から彼らに近づいて来られたのです。ここにキリスト教信仰の真髄があります。わたしたちの状態が暗く荒れすさみ最悪の状態であっても、イエス様の側から近づいてきてくださるのです。どんな時もわたしたちを見捨てず、いつもともにいて、わたしたちに語りかけてくださるイエス様の姿がここにあります。
 暗闇に包まれていた彼らは、当初、そのお方がイエス様だとはまったく分かりませんでした。しかし、イエス様とともに歩いて行く中で、彼らのかたくなな心が砕かれ、復活されたイエス様であることを知らされました。彼らは次の日朝早く、希望と未来に満ちたエルサレムへの道を再び歩き始めました。
 わたしも48年間という長いクリスチャン人生の中で、何度も冬の時を迎え、そのたびに深く挫折し、まったく出口が見えない状態になりました。しかしそのような時、必ずイエス様の方からわたしに近づいてきてくださり、最良の方法で最高の道を開いてくださいました。その人生において、イエス様とともにあるなら「一陽来復」の道は、あなたにも備えられているのです。
 
+ルカによる福音書24章13〜32節

 13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。 25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。 29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

 


+ 2018年3月18日 特別伝道礼拝:「神様の眼(まなざし)」
  眼は人間にとって大切な器官です。しかし、このような大切な器官にも限界があります。それはいくら視力が優れている人であっても、自分の眼に見える物しか見えないということです。そのことのゆえにわたしたちは、時として自分の眼に映るものを絶対化してしまうことがあります。
 旧約聖書のサムエル記で、主は預言者サムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16:7)と言われました。これはサムエルがサウル王の次の王を選ぼうとした時に、主がサムエルにかけられた言葉ですが、ここにわたしたち人間の限界と神様が注がれる眼がどこにあるかを知らされます。
神のひとり子としてお生まれになられたイエス様が、本日の聖書の箇所で、次のように言われました。
 「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」(6:3〜4)と。人間のからだの機能からすると、右の手がしたことは左に伝わっていくことは当たり前のことです。しかしイエス様はここで、「『右の手がしていることを左の手に知らせるな』という位、自分でも分からないほど 徹底して隠れて行いなさい。」と言われたのです。
 ここにイエス様のわたしたちに対する深い戒めがありました。それは、わたしたちの自己顕示欲に対するものでした。わたしたちは実に自己顕示欲の塊のような存在です。いつも自分がナンバーワンになりたがり、自分が主人公になっていなければ気が済まないのがわたしたちの実体です。ここでイエス様が厳しく戒められたのは、パリサイ人や律法学者に対してだけではありませんでした。それはわたしたち全人類に対する深い戒めでもありました。
 神様の眼は、どのような人に注がれるのでしょうか。イエス様は言われました「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と。またパウロは「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(エペソ5:5)と言いました。
 神様の眼(まなざし)は、自分を絶対化して神などいないと高ぶる人ではなく、いつも隠れたことを見ておられる神様の前にへりくだり、「わたしこそ罪人の頭(かしら)です」と告白する人に注がれるのです。 
 
+マタイによる福音書6章1〜4節

 1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。 2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。 3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。 4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。

 


+ 2018年2月25日 召天者メモリアル礼拝:「黄泉からの叫び」
  わたしたち人間にとって、何のために生き、死んでどうなってしまうのか?ということは永遠のテーマです。本日の召天者メモリアル礼拝は、先に天に召された兄姉を偲ぶとともに、聖書を通してこのテーマについて深く考える時でもあります。
わたしたちがいつも礼拝の中で告白しています「使徒信条」は、紀元2世紀ごろに正式に制定されたものです。この文の中で、イエス様のことを「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り」と記していますように、イエス様だけが全人類の中で唯一、陰府にくだり、そこからよみがえられたお方であるということです。このイエス様が、本日の聖書の箇所で「金持とラザロ」のたとえを用いて、わたしたちに大切なことを教え示しておられます。
 イエス様はここで、単に金持(イエス様に敵対したパリサイ人・律法学者をさしています)は黄泉に行き、貧しい人(ラザロ)はパラダイスに行くと言っておられるのではありません。イエス様のご性質は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)とありますように、敵さえも愛する徹底した愛のお方でした。その思い、願いは「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:15・16)と、復活して弟子たちにその姿を現されたあと、天に昇られる前に弟子たちに命じられましたように、すべての人が救われてパラダイスに行くことでした。だれひとりも黄泉に行くことではありませんでした。
 そのイエス様が本日の聖書の箇所で、金持の口を通して次のように言われました。「父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに5人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです」(16:27・28)と。この黄泉からの金持の叫びは、イエス様の愛による叫びでもありました。十字架にかかって死んでよみがえられたイエス様にあるならば、わたしたちは生きる勇気と力が与えられ、「死んでも生きる」という希望が与えられるのです。
 本日の召天者メモリアル礼拝は、単なる記念日ではありません。わたしたちが何のために生き、死んでどうなるかということを深く覚える時でもあるのです。イエス様によって救われ、永遠の生命に入る約束が与えられていることにあらためて感謝しましょう。
 
+ルカによる福音書16章19〜31節

19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。 20 ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、 21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。22 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。 23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。 24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。 25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。 26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。 27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。 28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。 30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。 31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

 


+ 2018年1月28日特別伝道礼拝:「雄々しくあれ」
   

今日、企救エクレシア週報の表紙の写真スペイン、バルセロナ「サクラダファミリア大聖堂」を見てびっくりしました。実は羽田空港に向かうタクシーの中で運転手さんとサクラダファミリアの事を話していたからです。 サクラダファミリアの意味は、神の家族「イエス様、その父ヨセフ、母マリア」を示す言葉でありそれは、神の家族であるクリスチャンを象徴しているのだと思います。さて私は2012〜2015年の間、ドイツのケルンという町で日本語教会の牧師をしていました。その貴重で宝ともいえる出来事を皆さんと分かちあいたいと思います。

 その前にドイツの教会のシステムについて少しお話したいと思います。日本の教会は献金や寄付によって経済的なものを補っていますが、ドイツでは、国が教会の為の税金を国民から徴収しそれを各教会に割り当てています。つまり、経済的には国が教会を運営しているともいえます。
しかし、近年、教会税の集まりが悪くなり、日本語教会の援助が打ち切られてしまいました。それも、私が赴任する年にです。グッド(バット)なタイミングです。(笑)

 私は、そのことを承知で「何とかなるさ〜」くらいの感覚でドイツに赴いたのですが、当のケルンの教会員たちはそうではなかったようで、これからの教会運営について大きな不安をもっていて、教会員の心をバラバラに引き裂いていました。そのうえ冬のドイツは薄暗く太陽の出ない日が続き、また私を追い出そうとする様々な働きを受け、さすがの食いしん坊な私も食事も喉を通らない日々が続き、ついには鬱(うつ)になってしまいました。

そんな時に、スペインのバルセロナの教会での奉仕の仕事の依頼が来ました。この時、私は体調不良を理由に断りました。しかし、その教会のお世話役の女性が、「先生!そんな時だからこそ、是非バルセロナに来てください。きっと元気になりますから。」と言って、しきりに勧められるので、その奉仕を引き受けることにしました。そして距離にして1200Km、飛行機で2時間かけて空港に降りた瞬間、その理由を知りました。太陽はサンサンと輝き、どこまでも続く青空、薄暗いケルンの空とは大違いです。バルセロナの教会の兄弟姉妹との交わりや奉仕のなかで、大事な何かを主は与えてくださいました。私は、それまで自分で何かをしようとジタバタしていました。自分で何かをすることを主が支えて下さることは確かです。しかし、「本当に苦しい時、人や被造物の力ではどうしようもない時に、解決できるのは主のみである」ということです。それからひと月、余計なすべての動きをやめて、主におまかせしてひたすら祈りました。すぐには解決しては頂けませんでしたが、主は一歩一歩、私自身とケルンの兄弟姉妹たち一人ひとりに働いて下さり、教会を一つの家族として下さいました。主は、必要な時に必要なものを必要な分だけ、確実に与えて下さいました。決して多過ぎず、不足なく丁度よく、ケルンの教会にその恵みを与えて下さったのです。ハレルヤ!!

今日の御言葉の締めくくりの部分を、共にわかちあいましょう。
待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。(詩篇27:14)  主は、「何をクヨクヨしている。今すぐ元気になれ(怒)!」というような御方ではありません。最高のタイミングで必要(私たちが気づかないでいる必要まで)を満たして下さるのです。私たちは、どんなに健康で力強く見える時でも自分の力で雄々しくなることも、心を強くすることもできません。
ただ、主のみがそれを可能とされるのです。アーメン!!  

 
+詩篇27篇

【ダビデの詩。】1 主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。 2 さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。 3 彼らがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。 5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ/幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ 6 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ/主に向かって賛美の歌をうたう。 7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き/憐れんで、わたしに答えてください。 8 心よ、主はお前に言われる/「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 9 御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。 10 父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。11 主よ、あなたの道を示し/平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。 12 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が/わたしに逆らって立ちました。 13 わたしは信じます/命あるものの地で主の恵みを見ることを。 14 主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。

 


「2018年1月28日特別賛美」


Elisha.jp

主の愛が今

 

 

 

 

 

「2017Easter Gospel Concert」by Manna

 

manna(マナ)プロフィール
 師家庭に生まれ、幼少期より讃美歌などの音楽に囲まれて育つ。 四歳時よりクラシックピアノ教育を受ける。 高校時にピアノに加え、声楽を学ぶ。幼い子どもから人生の先輩まであらゆる年齢層、様々な境遇の一人々が一つとなり賛美をするゴスペルを学び、歌い続けている

 

 

 

 

+ 2017年10月29日特別伝道礼拝:「生きる喜び」
   今日、日本基督教団深沢教会より田代孝一先生をお招き致しました。この「人生を根底から変え、あなたに新しい価値をあたえ、真の勝利をもたらす素晴らしいメッセージ!」を通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように、私たちの心の耳と目をも開いてください。主イエス・キリストの御名をもってお祈りいたします。 アーメン 
 
+ピリピ人への手紙4章10〜13節

10さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。 11 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

 

NEWSお知らせ

2017年10月29日
毎年恒例の教会リサイクルバザーを開催いたしました。多くの近隣の人に来て頂き感謝です。また、沢山の方に喜んで、頂いたことは主の恵みでした。主に感謝いたします。アーメン!!

    


「会堂建築10周年記念チャペルコンサート」


原田和代(Vo)  小櫻真実(P)

YouTube へ移動して視聴するとチャプターごとの視聴が可能です。

※youTubeへ移動するにはフレーム上部の矢印マークをクリックしてください。 

 

 

 


information店舗情報


日本基督教団 深沢教会

イエスキリスト
    企救エクレシア

〒802-0974
北九州市小倉南区徳力4-17-15
TEL/FAX .093-964-2590
Email:kikuecclesia@gmail.com
→アクセス