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私たちは聖書を信じるプロテスタントの教会です。   目標:福音を日常的に伝える。 祈りを呼吸のように行う。 聖書の御言葉を生活の中に生かす

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日本基督教団 深沢教会 イエス・キリスト企救エクレシア

ようこそ、日本基督教団 深沢教会 
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manna(マナ)プロフィール
 師家庭に生まれ、幼少期より讃美歌などの音楽に囲まれて育つ。 四歳時よりクラシックピアノ教育を受ける。 高校時にピアノに加え、声楽を学ぶ。幼い子どもから人生の先輩まであらゆる年齢層、様々な境遇の一人々が一つとなり賛美をするゴスペルを学び、歌い続けている

 











+ 2017年4月16日Easter記念礼拝:「復活!イエスのあいとゆるし」
   今日、日本基督教団深沢教会より田代孝一先生をお招き致しました。この「人生を根底から変え、あなたに新しい価値をあたえ、真の勝利をもたらす素晴らしいメッセージ!」を通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように、私たちの心の耳と目をも開いてください。主イエス・キリストの御名をもってお祈りいたします。 アーメン 
   
+ヨハネによる福音書20章24〜29節

24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 26 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。27 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 28 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 29 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

 


+ 2017年3月26日召天者メモリアル礼拝:「ふたつの生き方」
   

 本日は企救エクレシア教会において、初めての召天者メモリアル礼拝をささげることが出来ますことを心より感謝します。本日の説教題は、「ふたつの生き方」です。本日の聖書の箇所によりますと私たちの生き方は、大きくふたつに分けられると書かれています。ひとつは見えるものに目を注ぐ生き方であり、もうひとつは見えないものに目を注ぐ生き方です。

 本日の聖書の箇所の著者であるパウロという人物は、このふたつの生き方をその人生の中で生き抜いた人物でありました。パウロは他の聖書の箇所(ピリピ書3章)で、自分のことを、「私は8日目に割礼を受けた者、イスラエル民族に属する者、ベニヤミン族の出身、へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」と言っていますように、パウロは当時のエリートのなかのエリートで、まったく非の打ちどころのない人物でした。自信と確信に満ち自分の力で何事もなすことが出来る100点満点の人物でした。まさしく、目に見えるものに目を注いで生きてきた見本のような人物でした。

 そのようなパウロが、キリスト者を迫害するためにダマスコという地に向かう途中、突然天から光が差し込んできて地に倒され、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」というイエス様の声を聴き、その時から彼はまったく目が見えなくなりました。そのような状態が3日間続き、自分の力だけでは何もすることが出来なくなってしまいました。しかし、この3日間が彼の人生を大きく変えました。イエス様の弟子であるアナニヤが、パウロに手を置いて祈ったところ、目からウロコのような物が落ち、パウロは再び見えるようになりました。 

 このことを体験したパウロは、かつての自分の姿と対比して、自らのことを次のように告白しました。「しかし、わたしにとって益であったこれらのものをキリストのゆえに損と思うようになった。わたしは更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。

 キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている」(ピリピ3:7〜)と。彼はイエス様と出会うことによって、それまで全力を注いで得てきたすべての物を、ふん土のように思うようになったのです。その人生は大きく変えられました。目に見えるものに目を注ぐ生き方を絶対化してきたパウロが、目に見えないものに目を注ぐ生き方にこそ本当の生き方があることを知ったのです。

 有名な数学者であり哲学者であるパスカルは、その著「パンセ」の中に、「人間には、神によってしか埋めることが出来ない空洞がある」という言葉を残しました。私たちの人生は、イエス・キリストというワンピースを、その人生の中に組み込むことによって、すべてに意味がある人生へと変えられるのです。

 この召天者メモリアル礼拝において、目に見えないものに目を注いで先に天に召された愛兄姉を偲び、もうひとたび目に見えないものに目を注ぐ生き方にこそ、本当の生き方があることを覚える時としましょう。

 
   
+コリント人への第2の手紙4章16節〜18節

16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。 18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

 


+ 2017年2月19日特別伝道礼拝メッセージ:「あきらめないで・・・」
   今日、日本基督教団深沢教会より田代孝一先生をお招き致しました。この「人生を根底から変え、あなたに新しい価値をあたえ、真の勝利をもたらす素晴らしいメッセージ!」を通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように、私たちの心の耳と目をも開いてください。主イエス・キリストの御名をもってお祈りいたします。 アーメン 
   
+創世記32章23〜31節

23 すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。 24 ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 25 ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。26 その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27 その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。28 その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。29 ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。30 そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。 31 こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。

 


2017年1月22日 特別賛美「感謝と喜びを」「新しい服を着て」

by Elisha.jp

+ 2017年1月22日 礼拝メッセージ:「神の母性」
 私たちは神から時に応じて慰めていただき、また励ましを頂いています。特に私たちがしみを味わう時に、聖書の言葉を通して、また目には見えない働き、それはスピリチュアルな働きであり、まさに聖霊なる神様の働きということが言えるわけですが、聖霊の働きが豊かに私たちの心と思い、身体に働くことを実感できるのです。これは神を信じる民ならば、昔も今も変わることなく生きる希望として与えられてきたのです。
私たちに与えられた旧約聖書のイザヤの預言においても、神がイスラエルの人々を慰めたことが希望の言葉として述べられています。イザヤ書66章は、長きにわたるイザヤの預言書のフィナーレを飾る言葉なのですが、ここで語られる神の姿というものは、非常に興味深いことに私たちは注目することができます。どこが興味深いかについては、この御言葉の語る通りなのですが、私たちの神が「母親」として描かれている、ということなのです。
旧約・新約を問わず、聖書で語られている神の姿というものはしばしば「男性」として描かれています。実際に聖書の原語であるヘブライ語でもギリシア語でも、神や主という単語は、全て男性名詞です。実際に今日与えられたテサロニケの手紙の中でも「わたしたちの父である神が」と語られている通りです。主の祈りでも使徒信条でもすべて、父なる神と呼ばれるのです。私たちが聖書から神の姿を聞き取ろうとするときには、神の「父性」についてイメージされることが多いのです。
しかしながら、本日のイザヤ書では「母親」としての神が語られているのです。66章13節では「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。」とある通りです。つまり、私たちの神とは、父性もさることながら母性も兼ね備えた御方であることを、神の言葉は包括的に明らかにしているのです。
話は変わりますが、先日アメリカ合衆国ではドナルド・トランプさんが新しい大統領として就任しました。聖書の上に手を置いて、神の信託によって建てられたアメリカ合衆国の大統領として働くことを宣誓したシーンは、記憶に新しいことと思います。アメリカという国は「神の国」の先取りとして建てられているという意識が強くありますので、大統領であるトランプ氏も、神の御心というものを問い尋ねながら、政治を行うことがアメリカ国民全体の期待の中にあります。
トランプ大統領は早速、自らの公約を次々と実行に移しています。「アメリカ・ファースト」という名の下に、オバマ前大統領の推進してきたグローバルな政治体制を次々と廃止しようとしています。それはアメリカという国が、神の国を体現するものとして非常に強大な勢力を持つことこそが、神の意思に沿うものであるという、トランプ大統領の強い信念があるようにも思えるのです。トランプ大統領のこの信念は、あえて伝統的なジェンダーの言い方をすれば、父なる神のイメージであると私は感じます。強く頼もしいイメージ、戦闘的でありまるで狩りをするかのような勢いが、トランプ大統領の姿から強く描き出されているような気がするのです。
しかし、聖書の神は本日の聖書の言葉からも明らかなように、父なる神のイメージだけを与えるものではない、ということです。ですから、強さばかりを強調するならば必ずや神のイメージにゆがみやひずみが生じるでしょう。そのような不釣り合いな様子は、聖書の神が語るイメージを壊すことにつながり、いつしか神が望まざることを人間が正義のもとに行い、多くの悲しみを生むことになっていくのです。
本日のイザヤ書の言葉で強調されているのは、慰めを子どもに提供する母親のイメージです。しかしその慰めとは、やはり女性の持つ強さの上に成り立っているものであることを、私たちは忘れてはなりません。女性の強さとは、先に述べたよく語られている男性的な強さ、つまり華々しく猛々しいものでは決してありません。しかし、子どもを胎内に宿して10か月もの間命を身体で守り抜き、陣痛の痛みを経て命を生み出す力は、静かなる強さに他なりません。この強さに支えられて、人は絶対的な安心の中で守られ、慰められていくのです。ある神学者は、神を表現するにあたって「超越と内在」という言葉を用いました。それはまさに「父性と母性」という言葉に共通するような気がしてならないのです。私たちの命が父親と母親を通して授かったように、私たちの神は、父なる神の側面と母なる神の側面が絶妙のバランスをもって私たちを養ってくださるのです。
どうぞ皆さまのうちにも、慰めの神が豊かに働いてくださいますように。 
   
+イザヤ書66章5〜13節

5 御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者/わたしの名のゆえに/あなたたちを追い払った者が言う/主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。彼らは、恥を受ける。 6 都から騒がしい声がする。神殿から声がする。敵に報いを返される主の声が聞こえる。 7 産みの苦しみが臨む前に彼女は子を産み/陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。8 誰がこのようなことを聞き/誰がこのようなことを見たであろうか。一つの国が一日で生まれ/一つの民が一度に生まれえようか。だが、シオンは/産みの苦しみが臨むやいなや、子らを産んだ。 9 わたしが、胎を開かせてなお/産ませずにおくことがあろうか、と主は言われる。子を産ませるわたしが/胎を閉ざすことがあろうかと/あなたの神は言われる。 10 エルサレムと共に喜び祝い/彼女のゆえに喜び躍れ/彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。11 彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り/豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。12 主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。13 母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。

 



2016年12月25日 「Xmas Gospel Concert」by Manna

manna(マナ)プロフィール
 師家庭に生まれ、幼少期より讃美歌などの音楽に囲まれて育つ。 四歳時よりクラシックピアノ教育を受ける。 高校時にピアノに加え、声楽を学ぶ。幼い子どもから人生の先輩まであらゆる年齢層、様々な境遇の一人々が一つとなり賛美をするゴスペルを学び、歌い続けている

 











+ 2016年12月25日 クリスマス記念礼拝メッセージ:「世界で一番貧しいクリスマス」
 本日の聖書の箇所には、イエス様の誕生の様子が記されています。イエス様が誕生された時、ローマ帝国において、徴税の目的から第2回目の人口調査が行われました。人口調査のためにはいくつかの規定が定められており、その一つに、調査を受けるためには、それぞれの家系にそって調査を受けなければならないという規定がありました。
 そこで、ヨセフも自分の家系の地であるベツレヘムに戻らなければなりませんでした。今住んでいるナザレからベツレヘムまでは140キロもの道のりがあり、並大抵の距離ではありませんでした。しかもその時、妻のマリヤは身重でした。当時の旅の困難さについては、伝道者パウロがUコリント11章26節で詳しく記していますように、困難に困難を重ねる旅でした。ヨセフ一行はこのような困難を経て、やっとの思いでベツレヘムにたどり着きました。イエス様の誕生は、お生まれになられる前から苦難の道をたどられるものでした。
やっとの思いでたどり着いたベツレヘムで、マリヤは月が満ちて出産しました。よそ者の彼らにとって、どこにも彼らの居場所はありませんでした。(居場所がないということは、人間にとって、どんなに悲しく辛いことでしょうか。)彼らの居場所は、悪臭と汚れに満ちた不衛生極まりない洞窟をくりぬいて作った家畜小屋しかありませんでした。そして、イエス様が寝かされたところも、家畜のよだれと臭いに満ちた飼葉おけの中でした。この世の王の王としてお生まれになられたイエス様は、人間以下の家畜同然の扱いを受けてお生まれになられました。まさに世界で一番貧しいクリスマスとなりました。
 父なる神は何故、このような場所をみ子イエス・キリストの誕生の場所とされたのでしょうか。しかし、ここにこそ神のみ心がありました。ルカ6章20節に「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである」と記されていますように、神のみ心はこの世で貧しい人たち、さげすまれている人たちにあるということです。Tペテロ5章5節に「あなたがたは、みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みを与えられる」と明確に記されていますように、神が一番好まれない者は高慢な者だということです。自分を絶対化し、自己主張、自己正義を振りかざし、他者をさげすむ者に対して、神は敵対されるということです。
イエス・キリスト自らが、貧しさの極みの中でこの世に誕生されたということは、私たち一人一人が自分を絶対化して生きるのではなく、いつも神様の前に謙遜になって生きるということです。
 今、時代は格差社会となり、混乱と混迷の中に向かって進んでいます。このような時代の中にあって、私たちはもうひとたび静まって、世界で一番貧しいクリスマスを通して、この世に来て下さったイエス様の誕生の意味を深くかみしめ、イエス様の前にへりくだり謙遜になって、互いに助け合い、ゆるし合い、愛し合って生きていきましょう。ここにこそ、本当のクリスマスがあるのです。
   
+ルカによる福音書2章1〜7節

1 そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。 2 これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。3 人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。4 ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5 それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。 6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、 7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

 


2016年11月27日 「会堂建築10周年記念チャペルコンサート」


原田和代(Vo)  小櫻真実(P)

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+ 2016年11月27日 特別伝道礼拝メッセージ:「主の山に備えあり」(アドナ・エレ)
 

どんな家庭にも、その家の家風がありますように、教会にも家風ならぬ教風のようなものがあります。格式伝統を重んじる教会、聖霊の働きを重んじる教会等、同じキリストの教会であってもそれぞれに特徴を持っています。 献堂10周年を迎えたこの企救エクレシアの教風は、どのようなものでしょうか?人数は少ないけれども明るく元気のある教会、どんなな人でも受け入れる懐の深い教会、数えればいくつもあると思います。しかし一番の特色は、この教会の建設に心血をそそぎ、65歳という若さで天に召された故馬場哲雄兄の信仰がいっぱい詰まった教会と言えるのではないでしょうか。 馬場兄の信仰は、先程みなさんで賛美していただいた、「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり)の信仰でした。この賛美は、馬場兄が作詞作曲されたもので、馬場兄は、この賛美通り、すべてを主にささげ、すべてを主に委ねてその信仰の歩みを全うされました。 馬場兄がその信仰の手本とされたのが、本日の聖書の箇所に登場します、アブラハムでした。アブラハムは3大宗教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)の父祖として、あまりにも有名ですが、アブラハムもそこに至るまでは、多くの罪を犯しました。自己の保身のために2度にわたり妻を裏切り、ひとり子イサクが与えられる時も、神を笑ったと聖書に記されています。アブラハムに限らず私たちは何度も神を裏切り、悲しませて信仰の高みへと導かれていきます。 へブル人の手紙に「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子をむち打たれるのである」(12:6)とありますように、主は私たちを信仰の高みに導くために訓練を与えられます。アブラハムは、この時「ひとり子であるイサクを燔祭としてささげなさい」と、人間の目から見れば酷とも思える厳しい訓練を主から与えられました。アブラハムは、この訓練に際し『はい、わたしはここにおります』としっかりとそれを受け止め、主に従いました。この時、アブラハムの中には、「神みずからが燔祭の小羊を備えて下さる」という主に対する深い信頼がありました。主はこのアブラハムの信仰通りに、イサクの代わりに燔祭の小羊を備えてくださいました。そして、このアブラハムのアドナイ・エレの信仰は、息子イサクに受け継がれました。 今、日本のみならず世界中の教会の課題として挙げられているのは、若者が教会に来ない、信仰の継承がなされないということです。ここでアブラハムは、この時ベテランの道案内人ではなく、2人の若者を一緒に連れて行ったと記されています。アブラハムは自らの生き方を通して、本当の信仰とは何かということを、息子イサクにそして2人の若者に伝えたのです。私たちは目の前の課題に嘆く前に、私たち自身がアドナイ・エレの信仰に立って、その信仰を生き抜くことです。それがこの課題に対する本質的な解決になるのです。 献堂10周年を迎えた企救エクレシアも、これからも故馬場哲雄兄が自らの生き方を通して遺されたアドナイ・エレの信仰に立って、ともに一つとなってイエス・キリストの福音をひとりでも多くの人に伝えていきましょう。 


   
+創世記22章9〜14節

9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。 10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。 14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。

 


2016年11月13日 特別賛美 「アメージンググレース」


BB.Oh!Sun'z  (ビー・ビー・オッサンズ)

 

 

 

 


+ 2016年11月13日創立14周年記念礼拝メッセージ:「教会の魅力」
 

 私たちにとって「教会の魅力」とは一体何でしょうか。 教会に足を向けられる方々が感じるのはそれぞれです。明るい雰囲気、元気な賛美、牧師のメッセージ、人々の温かさ、美味しい食事など、教会の魅力と呼べるものはいろいろあります。そして、そのどれをとっても教会の魅力を物語るものとしては、重要な要素であることに間違いありません。 しかし、私たちにとって決して欠かすことのできない教会の魅力とは、一体何でしょうか。 使徒パウロは、年若い宣教者であるテモテに対して、自分の持っている全てを教え伝えようとしました。獄中にあったパウロは、既に自分の人生に長い将来が無いという自覚がありましたから、テモテに伝える一言一言は真に迫るものがありました。おそらくテモテにとっては宣教経験の豊富なパウロにまだまだ学びたいことがあったに違いありません。それだけパウロは教会の魅力を体現したような人物であったのでしょう。しかし、今やその猶予は許されていなかったのです。 おそらくテモテが託された教会の一人ひとりも同様の不安を抱いたことでしょう。その不安は、やがて教会の人々をめぐって不満へと変化していったのです。私たちは根本的に、自分の内に抱えた不安が不満を生む要素となります。不満が共同体のうちに充満すれば、共同体にひびが出来、その日々が分裂へと発展します。そうなってしまいますと、教会の魅力を物語るどころではなくなってしまいます。パウロは、長い宣教生活を通して、そのような場面を幾度となく見てきました。だからこそ、最も大切な「教会の魅力」について、テモテに知らせようとしたのです。 その魅力とは何でしょうか。それは教会の土台にあります。パウロはそれを「神が据えられた堅固な基礎(19節)」と呼んでいます。時代が過ぎても、世の中の状況が変わったとしても、この基礎は決して揺らぐことがない、とパウロは説明しています。こうしてキリスト教会は2000年の風雪に耐えて、今日の私たちに継承されているのです。そして、その基礎は「神の言葉」そのものです。 パウロは獄中にあって鎖につながれていました。しかし、神の言葉はつながれていないと、パウロは力説するのです。神の言葉は、誰にも束縛されない自由さを伴って、聖霊なる神様の助けによって私たちの心に、そして日々の生活に注がれていくのです。これこそが決して揺らぐことのない基礎であるのです。この基礎の上に建てられた教会はどんなときにも私たちに不安の中の希望、不満を呼び起こさない抑止力となって働いてくださるのです。 企救エクレシアも14年の歩みを終え、15年目へと入りました。まだまだ若い教会です。若いということは、まだまだ伸びしろがあるということを、私たちは教会の魅力という視点から見据えていきたいのです。御言葉から始まって、様々な場面に教会の魅力は展開していきます。この教会が、そのような道を歩めますように。共に祈り、共に励んでまいりましょう。


   
+テモテ第ニの手紙2章1〜26節

◆キリスト・イエスの兵士として  1 そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。 2 そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。 3 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。 4 兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。 5 また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。 6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。 7 わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。 8 イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。 9 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。 10 だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。 11 次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。 12 耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。 13 わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」◆適格者と認められた働き手 14 これらのことを人々に思い起こさせ、言葉をあげつらわないようにと、神の御前で厳かに命じなさい。そのようなことは、何の役にも立たず、聞く者を破滅させるのです。 15 あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい。 16 俗悪な無駄話を避けなさい。そのような話をする者はますます不信心になっていき、 17 その言葉は悪いはれ物のように広がります。その中には、ヒメナイとフィレトがいます。 18 彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています。 19 しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。 20 さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。 21 だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。 22 若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。 23 愚かで無知な議論を避けなさい。あなたも知っているとおり、そのような議論は争いのもとになります。 24 主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、 25 反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。 26 こうして彼らは、悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、いつか目覚めてその罠から逃れるようになるでしょう。

 


+ 2016年10月23日特別伝道礼拝メッセージ:「人生のリフォーム」
   本日の説教題は、「人生のリフォーム」としました。今回、企救エクレシアも外装を新しく塗り直しリフォームをしました。私達の人生も、より良い人生を送るために、時としてリフォームする必要があります。 実はこのリフォームという言葉は、もともと宗教改革をさす言葉として用いられていました。この言葉の本来の意味は「原型に戻る」ということです。聖書によりますと、私達人間を含め、すべてのものが神の言葉によって創造されたとあります。ヨハネによる福音書には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(1:1〜3)と記されています。このように私達の本来の姿、その原型は、神の言葉と共にあって、その言葉に聴き従って生きるように神が創造されたということです。 本日の聖書の箇所は、マタイによる福音書5章から始まる「山上の教え」の結びの言葉です。どんな話でも結びの言葉は、重要な意味を持っています。イエス様が、とくにここでお伝えになられたかったことは、教えの本質にかかわることでした。それは単純明快で、私達が神の言葉(教え)を聴いて行うかどうかということでした。神の言葉は、ヘブル語でダーバールと言い、ギリシャ語でロゴスと言います。この意味は、言葉が形となるということです。それは言葉が言葉だけで終わらず、形となって初めて、その本来の意味を表すということです。私達が御言葉に従って生きる時、神は御言葉に伴うしるし(奇跡)をもって、私達を導いてくださるということです。言葉は必ず形になるということです。 神の御言葉に従って生きる生き方は、岩に穴を掘ってしっかりとした土台を造らなければなりませんので、時間と労力と忍耐が必要です。しかし、その上に建てられた家(人生)は、どんなに思いがけないことが、その人生の過程で起こったとしても、決して倒れることはありません。それどころか、その人生は神様の祝福を何倍、何十倍、何百倍も受ける結果となるのです。それが神様の約束だからです。 あなたの人生のリフォームを、最高のリフォーマーであるイエス様にお願いしてみてはいかがでしょうか。イエス様は、きっとあなたの人生を見違えるようにリフオームして下さることでしょう。
   
+マタイによる福音書7章24〜27節

24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

 


+ 2016年9月18日特別伝道礼拝メッセージ:「永遠の家」
   私たち人間に100%の確率で訪れるものは何でしょうか?それは「死」です。私たちは、いつも死を背負って生きている存在です。私たちは死の前には、まったく無力です。時として、死は突然私たちにおとずれ、私たちを悲しみのどん底に突き落とすことがあります。イエス様の時代もこの現実は同じでした。ローマ帝国による支配によって、争いは日常茶飯事で、そこでは多くの血が流され、突然に夫や親、兄弟や親せきを亡くして、人々を悲しみのどん底に突き落としました。イエス様はこの悲しい現実を毎日のように見て、その現実のただ中で成長されていかれました。イエス様はこの現実の中にあって、人間は死んで終わりではないこと、また、私たちの人生は決して空しいものではないことをご自身の生涯を通して、私たちに示し与えてくださいました。 イエス様が十字架にかかって死ぬことを弟子たちに暗示された時、心を騒がせる弟子たちに向かって、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」(ヨハネ14:1,2)と告げられました。コリント人への第2の手紙の5章1節に、「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない『永遠の家』が備えてあることを、わたしたちは知っている」と記されています。「私たちの本国は天にある」(ピリピ3:20)とありますように、私たちの本当の家は天にあるのです。この地上の家は、幕屋(テント:仮の家)でしかないのです。 イエス様は私たちを「永遠の家」に招き入れるために、大工の子として、この地に来てくださいました。いつも死を背負って生きている私たちは、この地では悩み、悲しみ、苦しみ、嘆き、涙があります。しかし永遠の家では、平安、やすらぎ、喜び、笑いがあるのです。私たちはこの地上の生活において、次の御言葉にしっかりと立って、永遠の家に招き入れられる希望をもって、現実を生き抜いてまいりましょう。
 「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ、見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(Uコリント4:18)

   
+コリント人への第2の手紙4章16〜18節

16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。 18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

 


2016年8月21日 特別賛美 「主の愛が今」


BB.Oh!Sun'z  (ビー・ビー・オッサンズ)

 

ボーカルは、ボーカロイドの「がくっぽいど」です。

 

 

+ 2016年8月21日特別伝道礼拝メッセージ:「FHL総選挙?」
  本日の説教題「FHL総選挙?」をご覧になって、???と思われた方も多いと思います。しかし、本日の聖書の箇所をお読みになれば、「あ、はー」とお分かりになられた方も、おいでになるのではないでしょうか。そうです、Fは信仰(faith)、Hは希望(hope)、Lは愛(love)を表しています。そして、その中で最も優れているものが愛であると書かれています。
この愛は正確に言いますと、ギリシャ語でアガペーと表現され、神の愛を表しています。この神の愛を具体的に顕したのが、神のひとり子であるイエス・キリストでした。イエス様の生涯は十字架への歩みに至るまで、まさしく神の愛を実践された生涯でした。本日の聖書の箇所の前節にわずか5行でそのことが記されています。「イエス・キリストは寛容であり、情け深い。またねたむことをしない。高ぶらない。誇らない。不作法をしない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを耐える」と。何と私たちの歩みとかけ離れていることでしょう。私たちはこの中の何一つとして実践できないのではないでしょうか。では、私たちは神の愛に生きることはできないのでしょうか。イエス様が示された歩みは、単なる理想でしかないのでしょうか。私たち自分中心の人間にとって、神の愛に生きることは不可能なことなのでしょうか。
「炎のランナー」という映画で、主人公のひとりとして描かれたエリック・リデルというイギリスの陸上競技の選手が、今から約90年前に開かれたパリ・オリンピックにおいて、奇跡的に金メダルを取りました。彼は宣教師の息子として生まれましたので、その後、中国宣教に向かいましたが、満州事変に巻き込まれて日本軍に捕えられ、その収容所で病のため43歳という若さで天に召されました。彼はその収容所で多くの若者達に聖書を教え、大きな影響を与えたということです。その中で、「どうしても日本軍の行為を許せない」という若者に対して、「人は憎しみにとらわれると自分中心の人間になる。しかし、愛し許せないような人のために祈ると神中心の人間になる。」と教え、自ら毎朝人よりも15分早く起きて、日本と日本人のために祈ったということです。戦後、リデルから教えを受けた多くの若者達の中から、敵国日本に向かう宣教師が起こされ、神の愛によって教会・学校・病院・福祉施設等を建て上げ、日本の復興のたえに貢献しました。「敵をも愛す」というリデルの祈りは聞かれたのです。
自分中心の私たちもイエス様の御名によって祈る時、神中心の人間に変えられ、神の愛に生きるものとされるのです。
   
+コリント人への第一の手紙13章8〜13節

 8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、 知識はすたれるであろう。 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。 11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 13このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

 


+ 2016年7月24日特別伝道礼拝メッセージ:「あなたにも昼が来る
 本日の聖書の中に登場してくる一人の男は、昼というものがどんな状態かさえ分かりませんでした。なぜなら、彼は生まれつき目が見えなかったからです。彼はどんな思いで、その人生を送ってきたことでしょうか?自分で働くことさえできず、物乞いをして生きるしか道がありませんでした。きっと、誰も彼のことをまともに相手にする人はいなかったことでしょう。 しかし、そんな時、弟子たちと一緒にそこを通られたイエス様が、その男に目を留められ、この男が生まれつき目が見えないのは、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである。」と言われ、地につばきをし、そのつばでどろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って、「シロアムの池に行って洗いなさい。」と言われました。男はその通りにすると、たちまち目が見えるようになりました。彼にもやっと昼が来たのです。しかし、これは彼が本当の昼と出会うほんの序章にしかすぎませんでした。 この事実をどうしても信じることが出来ないパリサイ人たちは、この男と呼んで、「おまえの目を開けてくれたその人を、どう思うか」と質問しました。それに対して、彼は、「預言者だと思います」(預言者とは神にいちばん近い存在。)ときっぱりと答えました。そして彼はさらに続けて、「あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」と、当時エリート中のエリートであったパリサイ人たちの自尊心をずたずたに切り裂く言葉を彼らに投げかけたのです。彼らの怒りは頂点に達し、とうとうその男を城の外に追い出してしまいした。当時、城の外に追い出されるということは、村八分にされ生活の基盤をすべて失うことを意味しました。 イエス様はこのことを見計っておられたかのように、彼の元を訪ねられ、「あなたは、人の子を信じるか」(人の子とはメシアを表す言葉)と尋ねられました。 彼は即座に、「主よ、信じます」とイエス様を信じる信仰を告白し、その場で、イエス様を礼拝しました。  彼にとって本当の昼とは、単に目が見えるようになるということだけではありませんでした。本当の昼とは、「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ1:9)と言われたイエス・キリストとの出会いでした。長い長い暗闇の人生から、彼にも本当の昼が来たのです。
   
+ヨハネによる福音書9章1節〜7節
1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。 6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 7 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。

 

2016年7月17日深沢教会設立60周年 特別賛美


Elisha.jp  (エリシャ・ジャパン)


 

君の友達

主を誉めよ
+あなたは愛される為生まれた 

 


+ 2016年6月19日特別伝道礼拝メッセージ:「逆転満塁ホームランの人生」
 皆さんは、星野富弘さんという方をご存じでしょうか?この方は、中学校の体育教師をされていましたが、ある日の放課後、器械体操部のマット運動の指導をされていて、誤って頭からマットに落ち、下半身不随の状態になられ、絶望のどん底につき落とされました。しかし、入院中に聖書との出会いを通して、イエス・キリストを救い主として受けいれ、クリスチャンとなられました。その人生は大きく変えられ、口で筆をくわえて多くの詩画を世に出され、私たちに生きる勇気と力と励ましを与え続けておられます。まさに人生のどん底から逆転満塁ホームランの人生へと変えられたひとりでした。
このように私たちが逆転満塁ホームランの人生へと変えられ歩むことが出来るのは、この地上に唯一無二の存在としておいでになられたイエス様によってです。イエス様のことを聖書に次のように記されています。(ピリピ2:6〜8)「キリストは神のかたちであられたが神と等しくあることを固守すべきとは思わず、かえっておのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」と。人としてこの世に来られたイエス様の歩みは,家畜同然の扱いを受けて飼葉桶のなかで誕生され、信頼していた弟子たちからは裏切られ、人々からはののしられ、さげすまれ、つばきをかけられ、挙句の果てに肉がひきちぎられるほどムチ打たれ、この刑にかかった人はほとんどの人が気が狂って死んでしまうとされた十字架刑に処せられて息を引き取られました。その人生はまさにどん底の中のどん底でした。
しかしイエス様の生涯はこれで終わりではありませんでした。そのことを先程の聖書の箇所の後半に次のように記されています。(ピリピ2:9〜11)「それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天井のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」と。父なる神は、イエス様のその従順な歩みのゆえに、この世のすべての権威、権勢をイエス様にお与えになりました。まさにイエス様こそ、そのどん底中のどん底の歩みから逆転満塁ホームランの歩みへと変えられていかれたのです。
私たちの人生は山あり谷ありです。誰一人として順風満帆な人生はありません。このような歩みの中で、私たちはすべての権威と権勢とをもっておられるイエス様の名を信じイエス様とともに歩んでいく時、逆転満塁ホームランの人生へと変えられていくのです。
   
+ルカによる福音書15章11〜-20節
11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

 

2016年6月19日特別伝道礼拝 賛美


BB.Oh!Sun'z  (ビービ.オッサンズ)


 

 おどろくばかりの
(Amazing Grace)

 


2016年6月12日 Amy(エイミー) Live in Kiku-ecclesia
(沖縄を拠点に活動しているウクレレポップスユニット)
Member:   Vo.金城綾子 Gt.新城弘明 Bs.金城祐紀
         バイオリン.島袋霞 ジャンベ.A〜YA
イマジン
    Amysさんがイエスキリスト企救エクレシアでコンサートを開催していいただきました。多くの人が来て頂いて感謝です。
A〜YAさんのopening speechのあとイマジンの演奏が続きます。

MERCURY

金城綾子さんのspeechのあとAmyのオリジナル曲マーキュリーの演奏が続きます。




童神(わらべがみ)


 とても美しい,そして切ない、旋律にうっとりしました。  






MOTHER(マザー)


  金城綾子とA〜YAさんのハーモニーがとても素敵です。






No PE No GE


 A〜YAさんのアルバム”Chew!”に納められているジャージーなナンバーです。。  





Angel Song(エンジェルソング)


いよいよ、最後の曲です。
Amyさんのオリジナル曲"エンジェル ソング"です。






YouAnd I
(ユー・アンド・アイ)


アンコールは、A〜YAさんのオリジナル曲"ユーアンドアイ"です。



Amazing Grace
(アメージング・グレース)

 最後は、みんなでアメージンググレースを賛美しました。
 Amyの皆さん、そしてA~YAさん東京支部?の"どい あきこ"さん楽しいひと時をありがとうございます。


+ 2016年5月15日 Pentecost記念礼拝メッセージ:「祈り」
 本日の説教題は「祈り」です。私たちは、苦しい時、悲しい時、思い悩み自分の力ではどうしようもできない時、自分の力を越えて働く何かを信じて祈ります。それは、民族、国家、人種、宗派を超えて、私たち人間が共通に行う行為と言えます。 聖書の中にもたくさんの祈りの場面が描かれています。本日の聖書の箇所において、イエス様は「何事でも私の名によって願うならば、私はそれをかなえてあげよう」(14:14)と言われました。聖書においてイエス様が示された祈りは、「私の名によって」「私の名を通して」祈りなさいということでした。 イエス様はなぜそのように言われたのでしょうか。このことに 関して、イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである。 誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことが出来ない」 (14:6)と言われました。 古今東西、多くの宗教家、思想家、哲学者がこの「道」「真理」 「いのち」について様々な視点から解き明かしてきましたが、自分自身がそのものだと宣言した人は一人もいませんでした。さらにそれに加えて、「私によらないでは、誰一人として神のみもとに行くことが出来ない」と言われたのです。ここまで言い切れる人は、大ウソつきか本当にそうなのか、どちらかです。しかしこの言葉がウソではなかったことを、イエス様はその後の歩みを通してお示しになられました。 それが十字架と復活、そして聖霊降臨の約束でした。 本日はペンテコステ(聖霊降臨)を記念する礼拝です。聖霊降臨の様子は使徒行伝2章に詳しく記されていますが、その時、弟子たちをはじめ多くの人々が集まって「心を合わせ、ひたすら熱心に祈っていた」と記されていますように、すべてはイエス様の名によって祈る祈りから始まりました。 聖霊を受けた弟子たちは、聖霊がもたらす最大の賜物である「神の愛」に満たされて、力と確信を得て宣教に遣わされていきました。 私たち一人一人も「立て。さあ、ここから出かけて行こう」(14:31)と、私たちを力づけ勇気づけてくださるイエス様の言葉に従って、どんな時も祈りから始まることをしっかりと心に刻んで、この礼拝からそれぞれの場に遣わされてまいりましょう。
   
+ヨハネによる福音書14章6節,14〜16節
6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

 

2016年5月15Pentecost記念礼拝 賛美


Elisha.jp  (エリシャジャパン)


 主の教えを喜びとし


 新しい服を着て  
※Elisha.jpのメンバーのHIMEの
  オリジナルです。


+2016年4月10日 主日礼拝メッセージ:「ひとつになること」
 企救エクレシアの2016年度の歩みも始まり、今日は礼拝後に「教会総会」が行われようとしています。一年間の教会の歩みが主によって祝されるために、私たちは御言葉から教会を営む土台について、一緒に御言葉に聴いてまいりたいと思います。そのキーワードとなるのが、エフェソ書4章に記されている「ひとつ」という言葉です。
ひとつとなること。一致すること。これを望まない人は誰もいません。信仰者であろうとなかろうと、私たちは平和に生きたいと願います。そのために努力しようとします。しかし、その努力が完璧に実ることは決してありません。昔も今も、歴史はある意味で「平和を求める旅」であったとも言えるでしょう。しかし、平和を求める裏には人間の欲望があり、欲望が高じて争いとなる。平和を求めるはずが多くの犠牲を生み続けてきたのが、私たち人間の歴史なのです。
キリスト教ですら争いを推進した歴史があります。それは過去の話ではありません。現代でも例外なく主の御名によって私たちは争います。大なり小なりです。これは「ひとつとなること」から随分かけ離れた姿であると言えます。しかし、聖書はなおも私たちに「ひとつになること」を、パウロを通して勧めているのです。パウロには相当の自信がありました。どんな自信でしょうか?「ひとつになる」最高の秘訣を知っていたからです。
私たち信仰者は、「救い主イエス・キリスト」によってひとつにさせられていることは、誰もが認 めます。同じ主をあがめています。この時点で私たちはすでにキリストという身体に組み入れられて、ひとつとさせられている事実があります。この認識は大変重要です。「ひとつになること」とは、「既にひとつとさせられている事実を信じ、それを受け入れる」ことなのです。私たちはひつとなるために、色々と努力をし、そこに到達しようと努めるでしょう。しかし、ひとつとなることとは、私たちの努力の結果で達成できるものではありません。
もし私たちが、ひとつになることを意識しすぎて頑張りすぎてしまうならば、疲れ果ててしまいます。軍隊のような絶対服従を達成するためのルールを山ほど作って、統制のとれた組織にすることもあるかもしれません。しかし、そういうやり方は主の方法ではありません。神は、私たちをひとつにするために、聖霊様の力を用いられたのです。「霊による一致を保ちなさい」(3節)とパウロがまず第一に手紙に書いたのも納得です。
私たちにはそれぞれの考えがあります。信仰のスタイルがあります。好みもあります。  

 そこに多様性があるのです。その上で大切なのは、その誰もが「主を愛している結果」として、その実が生み出されているということなのです。そこで私たちは共通している。
そこに聖霊様の力が加わるならば、それぞれの想いがうまい具合に整えられながら、時には変更されていきながら、私たちは平和のうちに一致することが可能となるのです。パウロが訴えていたのは、まさに聖霊様のお働きを信じること一点に集約されたのです。
それは、企救エクレシアと深沢教会の間における一致でもあると、私は信じています。深沢教会より宣教師として遣わされた、敬愛する馬場哲雄兄弟が天に召されて3年が経とうとしています。馬場宣教師のお働きを思い出しては、皆さまが敬愛の念を深められるのは言うまでもありません。この3年間、企救の皆さまは互いに祈り、なせることをなしつつ、教会の歩みを進めてこられました。それは心から尊敬申し上げることです。ただ申し訳ないのは、深沢教会が必要な助けや支えを十分に差し伸べられないことでした。
しかし、企救エクレシアと深沢教会が「霊によって一致させられている」事実を信じるためにも、これからは田代孝一スタッフが企救の地に遣わされることをはじめ、惜しみなく企救の皆さんとともに歩むことを喜んでまいりたいと願っています。そういうつながりに、聖霊様は必ず祝福を注いでくださり、キリストと共に一致して歩む喜びを必ずや与えてくださることを、共に信じてまいりたいと思います。
皆さんにとっての2016年度がいよいよ祝福されますように祈ります!

 
+エフェソ人への手紙4章1〜6節 ◆キリストの体は一つ

1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、5

 

+ 2016年3月27日 イースター記念礼拝メッセージ:「最高のプレゼント」

私たち人間は、根本的に疑い深い性質をもっています。

イエス様が復活されて、弟子たちにその姿を現された時も、その場にいなかった弟子のトマスは、『私は、イエス様の手にくぎあとを見、その脇腹にあるやりのさしあとに手を差し入れてみなければ、決して信じない』と言いました。しかし、これはトマスだけのことではありません。これが私たち人間の実態このような私たちに、聖書はどのように問いかけているでしょうか。へブル人への手紙11章1節に、次のように記されています。『さて信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである』と。私たち信仰者にとって、この御言葉は日々に問われることです。

「ちいろば先生」として三浦綾子さんの小説に取り上げられ、世に知られるようになられた榎本保郎牧師の「旧約聖書一日一章」の著書の中に、このような言葉があります。「聖書を語るためのもの、学ぶためのものとしてはならない。それは聖書の非聖書化である。それではどんなに聖書を深く研究しても、所詮聖書読みの聖書知らずである。聖書の素晴らしさは、その内容にあるのではない。聖書の素晴らしさは、神がともに働いて、その確かなことをお示しになるところにある」と。なんと含蓄に富んだ言葉でしょうか。私たちの信仰は、聖書の御言葉に従う時、その確かなことを知らされるのです。これは牧師だからできる、信仰生活が長いからできるというたぐいのものではありません。

どんな人であっても、御言葉に聞き従うならば、神はその確かなことを示してくださるということです。

本日のイースター記念礼拝は、私たちにとって最も喜ばしい時です。イエス様の復活の事実を、本日の聖書の箇所で次のように記しています。『ケパに現れ、次に、12人に現れたことである。そののち、500人以上の兄弟たちに同時に現れた。・・・そののちヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば月足らずに生まれたような私にも現れたのである』(5〜8節)とパウロは記しています。神の教会の迫害者であり、敵対者であったパウロにとって、復活されたイエス様との出会いは何事にも代えがたい恵みであり体験でした。死人の復活などないという人々に対して、パウロは、『もし私たちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、私たちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる』(19節)と記し、イエス・キリストの復活が単なる望みではなく、事実であることをくり返し伝え『よみがえった』という言葉は、ギリシャ語で受動態現在完了形を表すということです。それは、イエス様のよみがえりの事実は、一回的な歴史的事実だけではなく、その事実は現在に至っているということです。私たちは毎日重い荷物をかかえて生きています。あきらめきれずに悩み苦しみ、目の前にある問題を乗り越えられず、いつも敗北感を味わっています。時には自分の無力さに打ちひしがれて、もうこんな人生やめてしまおうとさえ思うこともあります。しかし、主なる神はその重く大きな石を取りのけ、死という絶望の中からイエス様をよみがえらせ、今も私たちとともに生き動き働いてくださっているのです。

このイースターの時、イエス様の復活という最高のプレゼントが与えられたことに深く感謝し、もうひとたび主の御言葉に従って、イエス様とともに力強く新しい一歩を踏み出しましょう。
 
+コリント人への手紙15章3〜6節、19節
3 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、 4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、 5 ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 6 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。

 

2016年3月27日Ester記念礼拝 賛美


Elisha.jp  (エリシャジャパン)

 おどろくばかりの
(Amazing Grace)

 君の友達
(You've Got A Friend )  
※Elisha.jpのメンバーのHIMEが
  直訳しました。


NEWSお知らせ

 
2015年9月2日
北九州希望の光キリスト教会の石松兄と共に
「主の教えを喜びとし」を賛美しました。
ボーカルは、ボーカロイドのがくっぽいどです。

 
2015年9月6日
北九州希望の光キリスト教会の石松兄と共に
「ゴッド・ブレス・ユー」を賛美しました。
ボーカルは、ボーカロイドのがくっぽいどです。

2015年9月6日
メッセージ:我は永遠のいのちを信ず
今日イエス・キリスト復活の記念の日に北九州希望の光キリスト教会初代牧師 原田昌樹先生をお招き致しました。私たちが永遠のいのちを信じるということは? 何を意味するのでしょう。原田昌樹牧師のメッセージを通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように! 私たちの心の耳と目をも開いてください。主イエスキリストの御名をもってお祈りいたします。アーメン

御ことば(ヨハネによる福音書14章1節
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
  


 
2015年9月2日
北九州希望の光キリスト教会の石松兄が「主の愛が今」を共に賛美してくれました。ボーカルは、ボーカロイドのがくっぽいどです。

 
2015年9月6日
北九州希望の光キリスト教会の石松兄が、「鹿のように」を共に賛美してくれました。 ボーカルは、安武兄です。

2015年8月2日
メッセージ:消えない喜びはどこから
北九州希望の光キリスト教会初代牧師 原田昌樹先生をお招き致しました。原田昌樹牧師のメッセージを通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように!

御ことば(ルカによる福音書10章20節 


 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。
  
 
2015年8月2日
北九州希望の光キリスト教会の石松兄が、「ゴッド・ブレス・ユー」を共に賛美してくれました。ボーカルは、ボーカロイドのがくっぽいどです。

 
2015年8月2日
北九州希望の光キリスト教会の石松兄が、「感謝と喜びを」を共に賛美してくれました。 ボーカルは、ボーカロイドのがくっぽいどです。

2015年7月5日
北九州希望の光キリスト教会の石松兄が、「アメージング・グレース」を共に賛美してくれました。

 
2015年7月5日
北九州希望の光キリスト教会初代牧師 原田昌樹先生をお招き致しました。原田昌樹牧師のメッセージを通して語られる「みことば」の一つ一つが私たちの霊的成長・信仰の糧となりますように!

御ことば(ヨハネによる福音書10章17〜18節) 

17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
  メッセージ:「イエスのしめされた愛」
今日は、イエスの示された愛ということで、皆様とイエス様の心をご一緒にシェアしたいと思います。
 イエス様はクリスチャンでない人々の中には、十字架に掛けられ処刑され、弟子たちから見捨てられた大したことのない哀れな人物としか思っていない人もいます。しかし、神様のご計画を真に知ろうとするならば、イエス様の人生は十字架に向かって生きていたと言えます。イエスが自分の十字架の道を弟子たちに預言されたとき、ペテロは「そんなことは有ってはなりません」といってイエス様を諌めようとしますが、それに対してイエス様は、ペテロに「サタンよ!さがれ。お前は、神のことを思わず人のことを思っている。」と言いました。そうです、イエス様は私達の私のこの汚いドロドロした罪を背負って、十字架に向かってくださったのです。イエス様は、御父から出た愛、私達を握りしめ、だれも離さず抱きしめ、愛するという決意から出た十字架に向かって生きたのだと言えます

イエス様は今どこにおられますか? そうです、私たちのこの胸の中にいます。自分を悔い改め、どんなに自分を変えようと努力したとしても罪を拭い去ることは出来ません。神様と向き合い、自分の無力さ汚さをしり、そこをスタートとして、イエス様が全人類の罪を背負って十字架に向かい、復活されたという事実。ただ、このシンプルな福音を信じるということだけで、別に神学を学び、またギリシャ語やヘブライ語に通じ聖書を研究し尽くし、何か大変な苦行をする必要もなく、ただ、福音を信じることで、大祭司しか入ることの出来なかった至聖所に、そう私たちの心をその至聖所にしてくださったのです。そのイエス・キリストの示された愛というのは、感情に左右されるようなものではありません。私たちは、ボールのように転がる感情に左右され、あの人は嫌いだとか、また、人だけでなくいろいろなものを裁きます。しかし、それは当然な心の動きです。神様が人を作られて久しいのですが、誰一人として同じ人間はいません。それは、あなたは、かけがえのない唯一無二の存在であり、あなたしか出来ないことがあるのだという神様からのメッセージでもあります。それは、その人を愛するという決意です。違う言い方をするとその人を理解すると言えます。しかし、私たちにそれが可能でしょうか? 極端な言い方をすると、私は生まれて以来一度も自分を理解出来たことがないのです。では、どうすればよいのか? 解ろうと努力し続けることです。そうすることを決意することです。イエス様の愛も、決意から来ています。

 イエス様の愛は、3つの部分に集約されます。神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。自分を愛しなさい。
 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」(マタイ22:37-39)
 わたしたちは、いままで自分を解って欲しいとばかり思っている人生でした。  
 しかし、キリストの愛にふれ、悔い改めるならば、“「この人を解ろう、解りたい」と、全くベクトルが反対に向きを変える人生を選択する”という決心をするということ、どんなに私たちが失敗し、言ってはならないこと、しては成らないことをしてしまっても、主は愛してくださいます。そんなふうに、人を愛するように変えられていくのです。今日、明日変わらずとも、いつか必ず変えられていきます。主は無理やり変えるのではなく、道を示し、そして忍耐強く私たちが変わるのを待っていて下さるのです。

 私たちが、神の愛を実践しようとする時、自分の愛のなさや自分のわがままな部分を見せつけられます。隣人に目を向けると、相手を理解できないこと、傷つき傷つけあうこと隣人に目を向けなければ味わうことの無かった挫折感や無力感にさいなまれます。
 しかし、主は言います。「あなたの敵を愛しなさい」と!

 私たちは、選択することができます。あの人は気が合うから隣人にしょう、あの人は全然自分の事を理解しようともしないし、気が合わないので隣人とするにはどうかなぁ?とか。

イエス様は、「 43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)と言われます。選択の余地がありません。“どんな人でも愛する”決意を求めておられ ます。“完全でありなさい”とは、イエス様の霊を内に頂いているということを忘れないということです。

わたしたちは、イエス様の霊を内に抱いているために隣人と向き合います。向き合った結果、私たちは、苦しみ、憎しみ、裏切り、心の中の葛藤が生まれます。心からの呻きや神様に対する愚痴が出て、そして祈りが生まれます。ヤコブのように神と格闘することとなります。その中で、こんな醜い、とんでもない自分でさえも愛してくださっていること、こんな者の為にイエス様は十字架に向かわれたと言う事実と愛とを知ることができます。

私たちはその中で変えられて行きますが、何が私たちを変えてくれたのでしょうか?
  隣人を愛したことでしょうか? 神さまを愛したことでしょうか? 違います。隣人と向き合ったことで、傷つけられたこと、呪われたこと、迫害されたことが私たちを変えるのです。「3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3-5)とあります。

 イエス様は、苦しみを受ける時飛び上がって喜べ、と言われました。神の愛を知り決意をもって隣人に向かうとき、傷つき、自分の汚さを知り、そんな自分が愛されていることを知り、再び向き合い続ける。イエス様は、私たちが、傷つけること、裏切ること、呪うことを想定して、なおかつ愛することを決意し、十字架に向かうことでしか私たちの罪を拭うことが出来ないことを知って、なおかつ私達を愛してくださった。そのイエス様にならうものと主が変えてくださるというこの事実を知りました。
 私達は、その苦難、迫害、呪いを受ける時、飛び上がって手を打ち鳴らして喜びましょう!!  感謝!!
2015年10月19日のメッセージは、津隈兄です。
乞うご期待!!。

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